2010年11月17日水曜日

衆愚政治から民衆運動へ

あまり政治的研究をしていなくても、本来培っている倫理感、筋道、事の軽重の判断により、現在のいろいろな出来事に対する評価は与えられることは多い。

たとえば尖閣ビデオ問題。起きた当初から国家機密と思われないことを隠匿してきたことがおかしいとおもってつぶやいた。原因を隠したらその後対応の正しさが国民にも国際社会にも伝わらない。案の定くだらない(=本質でない)ニュースが連日TVをにぎわしている。

また昨日判決があった裁判員裁判で初の死刑判決が出た際、こともあろうに判決を出した裁判長がひとごとのように被告に控訴を勧めたことはすぐおかしいと感じてつぶやいた。

ところが毎日のように起こっているいろいろな問題は、いろいろな意見を調べ、歴史的状況を紐解かないと、きちんとした評価を与えられないことも多い。

たとえば北方領土については第2次世界大戦中のソ連とアメリカが参戦と引き換えに約束したヤルタ会談に根拠を求める必要がある。戦後にアメリカが反共に転じてから、北方領土を日ソが友好を進展させないよう足かせにし、現在もその魔力は続いている。

反対に尖閣諸島は国境の概念が形成された明治時代から現在まで一貫して日本の領土である事実を紐解けば、中国の対応は言いがかりとわかる。

現在の政治的対応を決めるのに日本はメディアも含めて国民の反応ばかりうかがっていて、肝心のその対応を決めるのに必要な知識を国民に与える努力を怠っているように見える。

民主主義はいいことだが、国民の反応をうかがって多数が満足するように政策を決めるいわゆる「衆愚政治」に陥っては、最善の選択をすることや大きなビジョンを持って政策を進めることはおぼつかない。

現在社会構造のひずみが来ているのに、毎日の政治ニュースが伝える政府の対応はまるでビジョンがないように見える。それどころか目先の約束をしたマニフェストすらなし崩し的に反故にしている。

大企業とか銀行、官僚は今のままでいいかもしれないが、どんどん生活を脅かされ先行き不安な庶民、地域の問題、教育の問題、国の問題を心配し憂えている、こころある人たちは真剣に悩んでいる。

要するに政党を通じてしか改革の手段がない今の政治の仕組みに頼っていると、どうしようもなくなってきているのである。

「民衆運動」というはるか昔に忘れさられてきた言葉を、もう一度物置から引っ張り出してきて、その価値を見直し変革していくことしか、道は残されていないのかもしれない。

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