2010年11月23日火曜日

「家」の崩壊と地域の再生

つい最近まで「家」は継ぐものであり、代々男子が、男子がなければ養子を迎え、それでもなければ「両もらい」ということまでして「家」の存続を図ろうとするのが大多数の常識であった。なかには就職した会社の辞令で日本各地を転々とし、定年後故郷に戻ってきて家を継ぐ人もあった。

それほど地縁血縁にこだわった日本人がいま大きく変わろうとしている。

人間が生きていくためにはまず職業が必要である。その前に志望する職業をおぼろげながらイメージしそれに合った大学に進学する。進学した時点で地縁が薄れ就職した会社でさらに薄れ、場合によっては決定的に途切れる。長男でも就職先の地で新たな地縁ができ、そこに定着する人もいる。

結局昔は密接だった「家」と職業は、農業・林業・水産業以外は完全に別々のものになり、特に商業は「店」の崩壊とともに家とは無関係のものになった。

選んだ職業が住む地を決め、先祖代々の地にあまりこだわらないのが顕著になってきた。親も自分の住む地に長男を呼び戻すとこを強制しない。むしろ嫁姑の関係がいやであえて1人暮らしを選ぶ人も多い。もうこの趨勢はだれも止められまい。

それで気がかりなことは二つある。ひとつはよぼよぼになった両親の介護はどうするかということ。もうひとつは父祖の地の先祖代々のお墓はどうするかということだ。
前者は有料老人ホーム・介護保険という便利なものができた。難問だったお墓の問題も「移転」という新商法が登場して、「解決」できた。

とても合理的になったが気になることも多い。核家族には親世代の知恵というものが伝わりにくい。また価値観の軸が失われて、歴史というものを体で身につけることも、伝統を大切にすることも失われる。地域のコミュニティが育ちにくい。これらは決定的に日本という国を変えていく様な気がする。民族の無国籍化グローバル化である。

ヨーロッパは伝統を重んじもっとも大切にする。アメリカは歴史が浅いためか余り伝統を重視しない。日本は立派な歴史を持ちながら顧みない。アメリカのイケイケ進歩主義がそろそろ行き詰まりをみせ、その追従をしてきたイケイケ日本もここにきて再構築の時を迎えている。そのキーワードが「地域」「歴史」「伝統」であると思う。

2010年11月20日土曜日

ギブミーチョコレート

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が最近話題になっている。参加国は工業品・農業生産物、金融サービスなど例外のない関税撤廃により、貿易の完全自由化を目指すものである。単に生産品のみならず、金融や労働者の受け入れ制限ができなくなるため、農業はじめ今まで保護されてきた全ての産業が自由化され、国内産業が相当ダメージを受けるといわれている。

当初シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国で発効したがオーストラリア、ペルー、アメリカ、ベトナム、マレーシアの5カ国が加盟、日本もつい先ごろAPECにおいて交渉参加に向けて関係国との協議に着手することを正式に表明した。

とまあウィキには紹介があるが、さらりと書いてある貿易の完全自由化には、日本の産業の荒廃を加速させるとんでもない影響が待ち受けているらしい。

メキシコの人はいう。メキシコが受けてきた苦難を日本が同じことを受けようとしていると。

1990年アメリカ・カナダ・メキシコの3か国で北米自由貿易協定(NAFTA)が発足した。その直後アメリカ産の安いトウモロコシがメキシコの市場になだれ込み、先住民を中心としたメキシコの主食のトウモロコシ農家が壊滅的な打撃をうけ、主食のトウモロコシは完全にアメリカに依存するようになった。

職を失ったメキシコ農民はホームレスになるかアメリカに不法移民となるしかなかった。アメリカは輸出する穀物には補助金を出して、他国に安く売れる仕組みをつくっている。労働力の安いメキシコですら、こういう状況になってしまった。

そうしたなかメキシコはアメリカと組む不利を悟り、南米ブロックへの傾斜をはじめた。
もともとアメリカはCIAの工作により南米に不当な干渉をし親米政権をあの手この手でつくってきたが、近年南米はアメリカ従属の軍事政権から独立民主政権を次々と生み出し、アメリカ離れを進めてきた。

アメリカは民主化と言いつつ一番大事なのは「アメリカのためになるかならないか」であり一旦アメリカのためにならないと判断すると、陰に陽に内政干渉をしてくる。言うことを聞かない政権は理由をつくりだしては爆撃までしてくることは、アフガニスタン・イラクで実証済みである。

実はそれ以前にアメリカは足元の中南米諸国には露骨な干渉をしてきた。1903年パナマ運河をどうしても手に入れたいアメリカは、それまでコロンビアの一部であったパナマを独立させ完全に傀儡である政権はアメリカに有利な条約を締結した。


このやり方がその後の典型的な南米支配方法になる。すなわちある国を属国にしたい時はその国の反対分子を応援し反乱させ、その依頼によってアメリカが軍事介入をするという手口をつかう。軍事力に勝るアメリカの応援を受けた勢力が当然のように政権を握る。アメリカの言うなりになる政権に対し、反対する勢力は10万人単位で粛清する。一時は南米諸国は親米政権ばかりになり、相互に連帯して亡命する反対する民主勢力を互いに粛清し合った。

もちろんこんな売国親米政権はだんだんその国の民主勢力に駆逐された。現在では露骨なアメリカの干渉やすさまじい親米政権の粛清を乗り越え、中南米のほとんどの国が民主勢力にとってかわった。

反米先駆者キューバは1959年カストロが革命を起こして以来、アメリカの禁輸が今も続く。支えとなったソ連が崩壊後もキューバは苦難を乗り越え、今では観光でヨーロッパ資本を導入、みごとに繁栄をなしとげている。

自国利益第一はやむを得ない。しかしそれをCIA工作と軍事力を背景に強引に進めるアメリカのやり方は世界的にも際立っている。その事実に世界各国は気づき始めているが、平和ボケ、ノー天気な日本だけがいまも「ギブミーチョコレート」をしていることはもう見るに見かねた状況になってきている。

アメリカに意見も言えない政府はもうたくさんだ。近くの国と自由に有効な話し合いもできない政府はたくさんだ。日本が戦後のアメリカ支配体制から脱却して真の独立を果たすのはいつのことやら。そのころには日本の輸出産業・大企業だけがのさばって、ほとんどの日本を愛する国民が産業を失い、ぼろぼろになってしまわないように、たった一人でも叫び続けたい。

2010年11月18日木曜日

奇跡のリンゴ


このブログのタイトルであるのにかかわらずあまりテーマとしない「スローライフ」にすこし関係あることを取り上げたい。

最近読んだ、石川拓治著「奇跡のリンゴ」。

リンゴ農家木村秋則が、奥さんの農薬アレルギーをきっかけに、無農薬リンゴを実現するまでの苦悩の物語。

無農薬という言葉はよく聞くが、リンゴについてはそう簡単にできるものではないということを思い知らされる。
カビや菌から起きる病気、ハダニ、シャクトリムシ、ハマキムシなどリンゴの敵は多い。長年の「品種改良」でリンゴの木が本来持っている病気や虫に対する抵抗力をなくしたため、農薬なしでは実をつけることはおろか、木自身の生存すら危うい。

何年も何年も無収入の日が続き、7人の家族をまともに食べさせることもできなくても、木村秋則はあきらめない。家族も苦労をともにしながらも木村を支える。

しかし10年もの歳月をかけてあらゆる工夫をしても、一向にリンゴは実ってくれなかった。それどころか800本あったリンゴの木は死にかけていた。もう知識も経験もなにも役に立たなかった。木村は一本一本のリンゴの木に謝った。

絶望感から木村は夜、死ぬつもりでロープをもって森に入り、ちょうどいい木を探していたとき、光り輝く「木」に出会った。それはまさに無農薬~自然そのものの1本のドングリの木であった。なぜ無農薬なのにこんなにも健康的なんだろうと思った時、ふかふかの土壌、根をしっかりと張る木に気づいた。

それから思い直して再び挑戦し、今度は土壌に注目した。リンゴの下の雑草を刈ることをやめ、土壌が豊かになり根がしっかりとしてくることにより、だんだんリンゴの木が元気になり、ついに無農薬リンゴが実をつけた!

見栄えが悪く、小ぶりな姿に最初は見向きもされなかったが、試しに一口食べた人は驚いた。みるみるファンが増えていった。全国から木村のリンゴを求める人が殺到し、やっと木村とその家族の言い知れぬ苦労が実ったのだ。

ストーリーそのものはよくある成功談にみえる。しかし別の見方をすれば、あらゆるものが人工的、都市的になっている人間界で知識とか品種改良とか人知を尽くしても、自然のもつ偉大な力にはかなうべくもない。

人間はともすると強引に自然を抑え込もうとする。自然をむさぼり、奪い尽くし、人間が一番偉いとする傲慢な態度が、今の文明社会のさまざまなひずみを生じさせている。

まだまだそのことに気づいていない、気づいていても知らないふりをする企業や資本家が多い。地球温暖化をはじめ異常気象、災害の頻発など自然からのしっぺ返しがもっと起きないと気がつかないのだろうか。

昔から日本人が自然と調和して生活し、自然の動植物をいつくしんだ暮らし方が世界中から見直されてきている。「もったいない」はもう世界に通じる言葉になった。日本人はもっとこのことを誇りに思い、祖先が営んできた暮らしを見つめなおし、自らの生活をすこしずつ変えていこうではありませんか。

そのことを改めて感じさせてくれる物語であった。

2010年11月17日水曜日

衆愚政治から民衆運動へ

あまり政治的研究をしていなくても、本来培っている倫理感、筋道、事の軽重の判断により、現在のいろいろな出来事に対する評価は与えられることは多い。

たとえば尖閣ビデオ問題。起きた当初から国家機密と思われないことを隠匿してきたことがおかしいとおもってつぶやいた。原因を隠したらその後対応の正しさが国民にも国際社会にも伝わらない。案の定くだらない(=本質でない)ニュースが連日TVをにぎわしている。

また昨日判決があった裁判員裁判で初の死刑判決が出た際、こともあろうに判決を出した裁判長がひとごとのように被告に控訴を勧めたことはすぐおかしいと感じてつぶやいた。

ところが毎日のように起こっているいろいろな問題は、いろいろな意見を調べ、歴史的状況を紐解かないと、きちんとした評価を与えられないことも多い。

たとえば北方領土については第2次世界大戦中のソ連とアメリカが参戦と引き換えに約束したヤルタ会談に根拠を求める必要がある。戦後にアメリカが反共に転じてから、北方領土を日ソが友好を進展させないよう足かせにし、現在もその魔力は続いている。

反対に尖閣諸島は国境の概念が形成された明治時代から現在まで一貫して日本の領土である事実を紐解けば、中国の対応は言いがかりとわかる。

現在の政治的対応を決めるのに日本はメディアも含めて国民の反応ばかりうかがっていて、肝心のその対応を決めるのに必要な知識を国民に与える努力を怠っているように見える。

民主主義はいいことだが、国民の反応をうかがって多数が満足するように政策を決めるいわゆる「衆愚政治」に陥っては、最善の選択をすることや大きなビジョンを持って政策を進めることはおぼつかない。

現在社会構造のひずみが来ているのに、毎日の政治ニュースが伝える政府の対応はまるでビジョンがないように見える。それどころか目先の約束をしたマニフェストすらなし崩し的に反故にしている。

大企業とか銀行、官僚は今のままでいいかもしれないが、どんどん生活を脅かされ先行き不安な庶民、地域の問題、教育の問題、国の問題を心配し憂えている、こころある人たちは真剣に悩んでいる。

要するに政党を通じてしか改革の手段がない今の政治の仕組みに頼っていると、どうしようもなくなってきているのである。

「民衆運動」というはるか昔に忘れさられてきた言葉を、もう一度物置から引っ張り出してきて、その価値を見直し変革していくことしか、道は残されていないのかもしれない。

2010年11月15日月曜日

友人の指摘

私のブログをみた友人はあるときこう言った。
「お前のブログのタイトルを見てきてくれた人は、内容を見て驚いて出て行くよ」

わかっている。自分で分かっているが、筆は止まらない。いまさらタイトルは変えられない。それからこのタイトルの「スローライフ」「人中心」と二つのキーワードでGoogle検索のトップに出るのだ。

そもそも「人の幸せ」が、今の世の中のようにカネとエネルギーをジャブジャブ使って大量消費しないと得られないものであるとは、どうしても思えなかった。

幕末から明治初めに日本にきて、幸せに暮らす庶民の姿と自然の美しさに日本の虜になったガイジンが大勢いた。小泉八雲、グロピウス、モース、、、、等々。

庶民は宵越しの金は持たないほど貧乏な人は多かったが、また有り余るものを持つことはなかったが、日々の生活は幸せだった。


それに引き換え街を歩く現代人の表情にゆとりは感じられない。医学も発達し、寿命は延びた。欲しいものはとりあえずたいていのモノは手に入る。より好みをしなければ、仕事にも就くことができる。

なぜ幸せそうに見えないのか。いろいろ考えて得た結論は現代人は忙しすぎる。忙しくても楽しければいい。がそれは強制された忙しさだ。そこには仕事の喜びはない。

ガンはストレスが原因になることはいまではよく知られるようになった。それは免疫力を損ない、日々生じるガン細胞を自らの力で消し去ることができなくなることから起きる。その大事な役割を「免疫力」が担っている。

そこまで致命的ではなくとも、ストレスは何らかの障害を体に及ぼす。

その主原因が忙しさ~ファストライフと考えれば、その反対の「スローライフ」で人が幸せになれると考えたわけだ。

もう少しスローライフを強調すれば、このブログも恰好をつけたかもしれない。しかしその世の中にはそれを実践するには、社会環境が整っていないように感じられた。景気がどんどん悪くなり、ゆったり暮らそうというゆとりを感じられるためには、政治が重要だと思われた。
ここまで申し上げれば、何が言いたいのかようやくわかっていただけると思う。

いくらスローライフと言っても世の中の動きと無関係には暮らせない。たとえばパソコンを駆使して仕事がバンバンできる優秀な人がいて、余りに忙しすぎるから仕事を減らそう、都会では忙しさが緩和できないので、田舎暮らしでインターネットを通じてゆったり仕事をしようと思ったとする。ところが景気が悪くなり肝心の仕事が減ってきて、依頼するほうに主導権が握られれば、仕事を選ぶ「ワガママ」な人は減らそうと思った以上に仕事は減ってしまう。肝心の最低限の生活ができなくなってしまう。

また社会がスローライフを許す余地が減ってきたのは、「カネカネ」と利益ばかり追求する企業が近年やたらと増えてきたことと関係がある。これは数年前の小泉竹中が進めてきた「構造改革」と関係が深い。日本だけに要求をガンガン言ってくるアメリカの動きも関係ある。

スローライフを実践するための障害~外堀を埋めようとして、無数の障害と闘う羽目になってしまった。要するに社会全体に風呂敷を広げすぎてしまったのだ。

「隠遁生活」をテーマにすればもう少し独自な世界を築けたかもしれない。でもそんな自己満足をする気にはなれなかった。

結局良心的な日本人みなが幸せになるためには、、という方向に向かってしまった。とてつもない大きな目標をつくってしまった。

でも自分の頭が考えることをむりやり別の方向へ転換することは難しい。しばらくはドンキホーテのごとく、ひとの幸せの障害になる社会現象に立ち向かっていくことになりそうだ。

2010年11月12日金曜日

名古屋市議会の最後の抵抗


庶民革命・脱官僚を謳い圧倒的多数の支持で当選した河村市長の政策にことごとく反対する議会の解散を目指して、平成22年8月末に始まった名古屋市議会リコール署名活動は1か月で46万5582人の署名を集めた。法定数36万5795人をはるかに超え、無効数が仮に2割あったとしても法定数に達するめどがたった。

ところがである。署名の審査の20日間の期限を目前とした10月22日、選挙管理委員長が突然、受任者名が空白である署名簿、すなわち請求代表者が街頭で集めた署名が適正であったかどうか1人1人に確認すると言い出した。

その署名数が11万4千人ありこれが多すぎるというのである。請求代表者1人当り11,400人、1日当り367人は決して多くはないと思われるが、、、署名をこのような形で確認するということは前代未聞。議員の強い働きかけが感じられる。

それもそのはず、選挙管理委員長はあろうことか元市会議員の伊藤年一氏。公正中立であるべき選挙管理委員の長がどうして今回の場合のケースで委員長になったのか、本来なら自ら委員を辞すべきではないか。

ともかくそれを理由に、地方自治法で決まっている法定審査期日20日を法的根拠なしに1か月延期してきた。それも委員会の議決とか監督省庁の自治省にお伺いを立てたとかなしにである。しかも期限を過ぎた11月5日に、事務局の書いた「委員長談話」という形でやっと発表しているだけで、いまだに公式に委員長の文書で発表していない。

法律を率先して守るべき準公務員なのになんという荒っぽさか。これに対して河村市長を支援している団体は違法であるとして行政不服審査法に基づく審査請求を同日起こした。

署名の事実と方法を署名者本人に問う「調査票」の扱いはどうするのであろう。調査票そのものが前代未聞なので、扱いも前代未聞である。

対面でしかも対面相手が「請求代表者」と答えると有効。「受任者」と回答するとアウト。ところが「わからない」と答えるとセーフ。それこそ意味不明だが、署名者の大半がわからないのが本当だと思う。

本人が変にわからないとダメと思って気を使い、思わずよく耳にする「受任者」なんて答えるとかえって命取りになる。なんてこった!

さらに調査票が帰ってこなかった署名は有効とするかどうか、まだまだわからないことが多い。

調査票の印刷代郵送費などの費用だけでも3000万円の税金が投入される。なんてこった!
こんなに抵抗してもおそらく議会はリコールされる。大半の市民に議会の悪あがきを目にした市民の気持ちはますます今の議員から離れていくことだろう。

マスコミの凋落

昔マスコミの使命は真実を報道し政治や社会の不正をあばくことだと思っていた。

今その評価は180度転換した。

その報道姿勢にはマスメディア各紙、各テレビ局が役所発表の報道については横並びの御用記事だ。記者クラブという組織が元凶らしい。もちろん検察でも警察でもしかり。自分の意見を持ち疑問を役所にぶつけるということをしない。質問もあらかじめ用意したもの。

お役所からは部屋を与えられ、お膳立てされ、機密費まで支給されているらしい。これではお役所の批判はできない。

特定の人物に対して、ネガティブキャンペーンが得意。実際には被疑者でありまだ有罪と決まっているわけではないのに、撮影の印象から視聴者は有罪との感触を持ってしまう。これをやられたのは最近話題の村木厚生労働省局長だった村木氏、少し前の薬害エイズ事件の阿部英氏、今まさしく行われている小沢一郎氏に対する「政治とカネ」ネガティブキャンペーン。

このブログでも以前取り上げたとおり、小沢氏に対して検察はゼネコンからの秘密献金疑惑から入ったが、ほとんど疑惑が見当たらないので政治資金規正法にかかる政治資金報告書の記載ミスで有罪にしようとした。しかしこれも有罪にすることはできなかった。

不起訴になるかと思われたところへ検察審査会制度を利用した再審査請求。この趣旨そのものは立派だが、悪用するとたとえ検察が起訴をあきらめるくらいのほとんど無罪に近い人であろうが、強制的に起訴できる。それを続けることによって、いつまでも被疑者扱いになり連日偏向報道をするマスコミと連動すると、視聴者の印象はとことん有罪に近くなる。

小沢氏の時は審査請求をした人物は特殊な団体の人とのこと。まさに事務局である裁判所、マスコミと連携した陰謀を思わせる。

マスコミは政治的に中立でなければならないが、民主党代表選の時は多少アメリカとは距離を置き、中国や他のアジア諸国とも仲良くしようとした小沢氏に対し「政治とカネ」をことさら取り上げ、アメリカ一辺倒の菅氏に肩入れした。結局小沢氏の代表選落選に影響力を行使した。

テレビに影響される一般の視聴者でもある民主党員は完全に洗脳され、冷静に判断した国会議員に比較して圧倒的に菅氏に投票したのである。

マスコミの「悪事」はそれだけにとどまらない。

検察の裏金をマスコミを通じて内部告発しようとした三井環氏に対して、その当日逆に検察に告訴された事件ではマスコミのリークをうかがわせる。

その三井氏は最高裁での有罪判決後収監され最近出所したが、小沢氏に対して検察とマスコミの密接な関係を前提に、検察へ話したことがマスコミにリークされ裁判に不利にならないようアドバイスをする。

それほど密接な理由は検察はマスコミの貴重な情報源だからである。

国民の知る権利を守るなんて能書きはとっくの昔に置き去りである。

そんなマスコミはネット界では「マスゴミ」と呼ばれるが、自由に発言できるインターネットのおかげでマスコミの情報操作の実態が明らかにされようとしている。



また「尖閣ビデオ」流出ではYouTube、ツイッターなどネットの迅速で拡散力が強く、真実を伝えるという特質に「新聞・テレビ」は完敗である。20時間経ってやっと報道される朝刊には前世紀の遺物を感じさせる。

今やマスコミの地位も大きく評価が下がった。

2010年11月10日水曜日

エコ生活


日本は世界でも例外的に水が豊富な国だ。

その日本でもはるか昔から水を大切にしていた。
永平寺のお坊さんはおけ1杯の水で歯を磨き顔を隅々まで洗い、大切にすることを修行の中で学んできた。

生活の中で繰返しこのことを頭の片隅におきながら、生活の場面で実践してみると、本当に少量の水でもいろいろなことができる。

少し前、超節水洗濯機が話題になったが、いまやそれが当たり前である。水だけではなく洗剤も電力も節約になった。それまでの満杯の水が嘘みたいである。

それからというもの、生活のあらゆる場面で意識するようになってきた。

たとえば入浴。頭を洗う時には手桶一杯で一度目の洗いとすすぎ、2度目は同様に洗いとすすぎに加えさらにもう一杯で仕上げを完了する。

顔や手を洗うときは泡立つ最小限の水で手を湿らしたらすぐ蛇口を止める。蛇口に石鹸がつかないよう手の甲を使ってすすぎのハンドル操作をする。慣れれば実に巧みになる。

習慣というものは恐ろしいもので、家族が同じように実践して水道使用量がそれまでの半分!になってしまった。

実は日本のほとんどの市で累進的な料金体系になっている。つまり使えば使うほど単価が上がる仕組みになっている。理科系の人はグラフに描いてみればわかるが、直線的なグラフが右肩上がりの2次曲線となってしまうのだ。したがって極端に言って使用料が半分になれば料金は1/3くらいになってしまうのだ。

エコ意識は自己満足的なところもあるが、思わぬところで実利もある。

皆さんも実践してみてはいかがでしょうか。

2010年11月9日火曜日

インターネットの影響加速

AmazonがMP3で音楽配信、電子書籍の本格化、You Tubeによる尖閣ビデオ流出、、、

世界はインターネットにより変わるといわれて久しいが、最近の出来事はそれを痛切に感じさせる。

「報道」の世界は急速にインターネットの影響力を増している。

それは迅速性・正確性のキャパ(サイトが無数になるため自己判断が必要になる)・反応可視性などの優位さがインターネットにあるからに他ならない。

中には反論する人がいるかもしれない。インターネットには〇チャンネル、○〇動画などおかしなサイトが多い、朝日・読売などマスメディアの方が安心できるなど。

最近はこの評価が大きく変わっている。

信頼性で言えば、マスメディアには逆に偏見があることが目立ってきた。たとえば民主党代表選挙で小沢氏に不利な情報を垂れ流しにしたり、頻繁に行う「世論調査」の恣意性、薬害エイズの安部英医師、村木厚生労働省局長などの冤罪の原因になるなど疑問点も多い。しかもマスメディアは責任を取らない。

表情の険しい被疑者の繰り返し流れる映像に、世論は簡単に洗脳されるのにもかかわらず、「事実」を報道しているだけだとのたまう。

検察・警察・裁判所などの不祥事露見もインターネットの力によるところが大きい。

情報産業についてはもともと影響はかなり危惧されてきたが、受け手側・発信側それぞれ技術向上能力向上により再現性が極めてよくなってきたことで、インターネット優位になり、一般の媒体の価値を相対的に低下させてきた。欲しいのは物体ではなくコンテンツだからである。

これが書籍まで影響が来ると一体「本」とか「出版」って何だろうという疑問がわいてくる。内容を伝えるのは無料になってくる恐れはないか、出版社がなくなるのではないか、と心配になってくる。

こうしたことは著作権の保護によって、著者の利益を守られ、本当の価値を伝え発信することにより、出版社(と言わなくなるかもしれないが)の価値は残る。

もっと社会に決定的影響を与えるのは商品を販売する店舗がいらなくなるのでは、という危惧である。あらゆる商品がネット上で販売されている。

商品はそもそも手に取ってみなければ、危なくて買えやしない、という常識はなぜ変わったのか。

メーカーのブランドで信頼感は得られる、こわごわやってみたが意外と安くて商品はしっかりしている、実際に見て回ると大変だがネットでは簡単に値段・性能の比較ができるという学習によりみるみるシェアを拡大してきた。

店舗がなくなると町のお店はどんどん減っていくという影響まであるので、深刻な問題をはらんでいる。
社会が大きく変わろうとしている。景気回復、街の再生、農村再生などただでさえ難しい問題が余計混沌としてきた。

普通の庶民の生活に影響のあるこれらの問題は、政府や官僚だけに任せておけない。せめてそれこそインターネットを利用して、広く一般の知恵を集めたらと思う今日この頃である。

2010年11月7日日曜日

日本の外交の稚拙さ

尖閣諸島沖での漁船領海侵犯体当たり事件に引き続き、北方領土へのロシア大統領の訪問事件が起きた。
この2つの事件で日本国の外交の稚拙さが浮き彫りになった。

尖閣諸島は国境の概念が完成した1895年以来日本固有の領土であるが(※1)尖閣諸島に石油資源があると分かった時点から急に中国が主張をしてきた。
漁船が中国政府のやらせかどうかはともかく、日本の領土に不法侵入してきてさらに海上保安庁の巡視船に体当たりしてきたこの2つの不法行為はある程度区別して対応すべきだった。

中国は尖閣諸島を領土と規定する国内法を整備している。日本は明確に日本の領土だとしている。もし領土問題とすれば2国間問題として継続的に交渉しなければならないのであるが、歴史的経緯からして領土問題にするのは中国側に無理がある。したがって日本政府は繰返し海上警備にあたらねばならない。これは譲れない。

巡視船体当たりはその場所が国内外にかかわらず違法性があるが、領土問題よりは、表現が悪いが「小さい問題」である。日本としては当然日本国で外国船が体当たりしてきたとして扱い、あとは海上保安庁から検察へ引き渡され、刑事罰を決定するという流れで処理をしようとした。当然の流れだ。

中国側は「尖閣は中国領、したがって海上保安庁が巡視活動をするのは「違法」、ましてや「自国領」の漁船が体当たりまでして抵抗したのは当然の行為」と考え、その後の対応をしてきたのは想像できる。ただし主張の前半はおおっぴらには言えない。せめて後半の「船長を返せ」だけを言ってきたのである。

最初この主張に取り合わなかった政府も中国から「レアアース」を人質に取られて大きく転換せざるを得なくなった。

ここから政治問題に発展して急遽船長を釈放することになったが、菅首相はこれを「検察が勝手に釈放した」とした。


検察はあくまでも政府の一機関だから首相の指示なしで勝手に釈放できるはずもない。また当初ビデオを公開はせず自らも見てないとした時期もあった。まったくありえないことだ。なぜビデオを公開しないかというとおそらく「中国への配慮」だと思われるがビデオがインターネットに流出した後も、中国がその事実に怒った形跡はなくむしろ「やはり巡視船からぶつかってきた」などととぼけている。全く無意味な「配慮」だった。

小沢氏もこの対応をニコニコ動画のインタビューで異論を唱えたが、日本政府は本来は次のような対応をすべきだったと思われる。

1.船長と船員逮捕後すぐビデオを公開。国際社会に向かって尖閣諸島が日本の領土であること、中国漁船が領海侵犯と体当たりをしてきたので、船員を逮捕したことをアピール。

2.(中国の「返還」要求に対し)取り調べを終え次第船員を「政治的に」釈放し、漁船を返還、船長を検察に引き渡す。

3.船長を取り調べ拘留期限がきたら、検察は全貌が明らかになっていなくてもそれまでの経緯を可能まで公表し、政治的問題であることに鑑み、処置を菅首相にゆだねることにする。

4.菅首相は中国との関係を重視し、「今後このようなことがないよう船長に言い聞かせて、釈放することにした」と発表

この方が堂々として筋が通っていたと思う。これを決断できるのは首相だけで、したがって菅首相は有能ではない、ということになる。

そしてメドベージェフ ロシア大統領の国後島訪問「事件」。

これは少し歴史的経緯を踏まえねばならない。

北方領土は1945年のヤルタ会談に先立つ1943年のテヘラン会談に端を発している。すなわち米ルーズベルト大統領は日ソ中立条約にも関わらず、対日参戦の見返りとして、南樺太と千島列島をソ連領にする約束をした。終戦後の1951年国会で放棄した千島列島に国後択捉両島が含まれると一旦明言したが、その後アメリカが政策を反共に転じたことを受けて、1958年には日本政府もその後押しで主張を変更、同年12月の日ソ交渉では4島返還を主張する日本と2島返還のソ連との間で合意が見いだせず、「平和条約」ではなく日ソ共同宣言にとどまって現在に至る。

すなわち問題の先送りだ。それから52年間も先送りし続けている。放っておけば解決するとでも思っているのだろうか。あり得ない。不断の交渉だけが唯一の道だ。もし日本政府が本当に解決してロシアと本格的に友好関係を築こうとすれば、での話だが。

国後島「訪問」はロシアの問題提起だと思う。要するに「早く解決して本来の外交関係を築こう」と。

これを考えずに常に日本の対応は慌てふためくだけ。国際的にみれば日本の対応のほうが奇異に感じられることだろう。

ロシアは「北方領土」を実効支配している。尖閣とは逆だ。民法では他人地でも10年実質所有し続ければその人のものになってしまう事実があることを考慮すれば、国際常識からみれば「領土問題は存在していない。」となる。2島返還も難しくなる。したがって4島返還原理主義にこだわることなく、現実的に不断の交渉で対応すべきと思われる。

そもそも外交は外国との常日頃の関係であるので、事件が起きなければ問題はない、ということではない。

貿易、為替など経済的なことは本当に日常的な対応を求められる。たとえば円高・自由貿易協定(FTA)・環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)など、まさしく緊急を要する課題だ。

貿易を完全に自由化すれば、自動車・家電などがすでに締結している韓国などと同じ土俵に乗れるが、農業などは壊滅的打撃を受けかねない。この問題は降ってわいたわけではなくすでに昨年あたりから始まっている。

環太平洋などと謳ってはいるが、実質的にはアメリカのしかも農産物を日本に輸出拡大したいというのが一番の狙いらしい。ただし自動車・家電など輸出産業が他国にくらべて不利になることをどう解決するかで頭が痛い。

有能な実行力のある首相でないと、大事な時期のかじ取りはできない。日本の外交問題は大半が日本の対応が対米従属一辺倒であることから生じてきている。このあたりをきちんとできる首相の誕生が強く望まれる。

(※1)尖閣諸島は国境の概念が完成した1895年以来日本固有の領土であるが、72年日中国交正常化後の78年鄧小平(当時副首相)が日本訪問の前に100隻以上の漁船を尖閣諸島周辺に繰り出して、突然尖閣諸島に領土問題が存在するかの様な対応をとり、日本での記者会見でも「72年の国交正常化交渉でも尖閣領土問題があったが「大局」を重んじ正常化を優先した」旨の発言をしたことが、今回や以前の石油開発問題の尖閣騒ぎになっている遠因だ。その時に時の総理の福田赳夫氏が明確に否定するコメントをすればよかったが単なる記者会見ということで無視をしている。

2010年11月4日木曜日

日本の「教育」再生



先日リアル熟議なる呼称で教育問題を話し合う場があり、日ごろから日本の教育はおかしいぞと思っている私としては参加しない手はないと思い、祝日を返上して参加してみた。

主催がNPOであるものの、タイトルは「小学校中学校のために私たちが明日から具体的にできること」とか「討論はせずに人の話を聞く」などという注意を書いた文科省のマニュアルに沿って進められており、国主導ですこし胡散臭い臭いがしたが、参加者は教育に関心の深い様子が感じ取れ、結果的には非常に有意義なものであった。

教育の荒廃といわれて久しいが、そもそも日本の教育の問題はどこにあるか思いつくまま列記してみる。

①英語教育を6年間、大学へ行けばさらに2年プラスの8年間やっても国際的に会話ができない人が多い。
②クラスを統制できない教師が原因の学級崩壊
③いじめが社会問題になるまで放置され、さらに教師自らいじめに加わる事件さえ起きた。
④子どもの人権を過剰に配慮しすぎて、基本的なしつけがなされていない子どもに対する教育方法を見失った
⑤教師が親に異常なまでに遠慮したことから生じたいわゆる「モンスターペアレント」問題

⑥受験体制を重んじて平均的に出来のいい子は作っても、特定の才能を引き出すことを軽んじて、国際的レベルに比肩しうる人材が生じにくくなったこと
⑦誰でも高校へ行く時代にはなったが、いわゆる「デキの悪い生徒」の勉強に対するモチベーションが低く、スポイルされる子どもが多いこと
⑧教育の目的があたかも皆、学者か高級官僚、大会社の役員になるのが目標かのごとく、とにかく試験問題が解けることを目標に置きすぎ、思いやる心、創造性、問題解決力、リーダーシップ、意思、表現力、判断力など社会人として必要な能力を身につけることをおろそかにしたこと

⑨職業に対して目を向けさせる機会が少なく、結果として好きで職を選ぶという傾向が概して少ないこと
⑩日本人として祖先を敬い歴史に思いをはせ、何より祖国を愛することという国民として大事なことを大戦前の遺物扱いにして、置き去りにしたこと

原因を作ってきたのは、教育への情熱をかえってタブーとし「官僚化」した教育者、話せない英語教育をいまだに放置したり、教育がこうなったのも親と地域と日教組が悪いと思っている(ような)文科省ばかりでない。
教育を母親任せにしてきた男親、男をとことん働かせ家庭を顧みる奴は会社のガンという扱いをした会社、しつけは学校がやるものだとうそぶく親、よその子に無関心な地域社会、戦後の誤った「民主」教育、伝統を切って捨てた(捨てさせられた)日本社会、全てが悪い。

リアル熟議では「討論」を禁止しているので文科省や教育者を批判するのは憚れる雰囲気がありありで、結論としては「家庭・地域・学校・職場としての会社の連携と交流を深め、社会全体で子どもたちを育てていこう」という単純だが、しかしすごく重要な点をあぶりだして終わった。

特に地域=コミュニティの希薄さがかなりな比重で教育問題の原因となっているという思いを強くした。
よその子が何をしていても注意しない親たち、たむろしている中学生を注意すると反撃にあうと思って、その場では何も言わず警察に通報する大人、隣の人の顔さえ知らない会社中毒の男連中、地域の行事を理屈をつけて忌避する人たち、こういうところから直していかないとなかなか復活しない。

しかし無理やり引っ張りだす形ではなかなか長続きしない。

小生の経験では、子どもをかわいがる大人は子どもの集まりから、だんだん大人たちの集まりへと移行していく。子どもが嫌いな親はほとんどいないので、それが自然なきっかけとなる。

さらにマンションについてはこんな手法もある。マンションの管理組合は多くは輪番制なので、義務として強制的に参加をせざるを得ない。少し前標準マンション規約でコミュニティの重要さが見直され、夏祭り・もちつき大会などの地域行事に管理費を充てても良くなったので、あわせて参加しなかった大人たちをコミュニティに引っ張り出し、その再生に一役買った。
そのせいか同じ団地(違う住戸)に住む2代目が増えてきた。手前みそだがコミュニティの再生には大いに参考になる。ただし10年はかかった。

残念ながらタイトルのような「明日から」「具体的に」「私たちが」できることはなかなか見いだせない。再生には時間がかかる、持続的に少しずつ変えていかないと、しかしながら確実にやっていかないと瀬戸際に追い詰められている日本の教育は決してよくならない。