2011年12月3日土曜日

本当に幸福な社会が見えてきた

この世に生を授かり、短い一生で何を成し遂げたいか、人には野望があり、夢があり、希望がある。
その中で自分が満足する生き方をするのが、当然でありそれが可能な社会である。

が、しかし他人の幸福を踏みにじる権利もないし、踏みにじられたくない。
自分の野望や夢は他人には迷惑になることもある。たとえばお金を儲けるということは、自分の裁量ではあるが、他人からお金を奪う事でもあるのだ。

かつては、ほとんどの人が直接他人に役に立ち、他人に感謝され、その対価としてお金をいただいていた時代があった。だんだん規模が大きくなり、会社という組織ができて、個人の職能を集団で果たして対価をいただく時代になった。

そのなかで人は「自分の職能が自らの糧を得ている」という自覚が薄れ、職は「自らの時間の切り売り」という感覚に近くなってしまった。

その発想のもとでは、企業側がその時間を買うのは市場原理であり、求職者が多ければ時間給は下がるという発想になってしまう。さらに「人が他人の役に立つことによって、自らの糧を得ている」という感覚はなくなる。

そして使う企業側も、「機械」と同等の解釈で人の価値を計り、自らを儲けさせてくれるのはどちらかという、極めて冷徹な「経済」論理が働く。すなわち最初は少々借金をしても、機械は「一旦買ったら給料がいらないから得」という効率一辺倒の観念が支配する。そこに人の姿はない。まさしく全てが流れ作業であり、機械以外何もない社会が待っている。ただし機械でいくら作っても、もう誰も買う人がいなくなる。

結局「効率」の追求は人類の滅亡へと繋がる。

もう一度、人類の原点に立ち返ろう。すべてが人間と自然しかない時があった。人は自然から糧を得て、暮らし育て、幸せを実感しながら生きていた。

誰かがいい道具を作り出し、他人の倍の量の米を作った。ある人は狩りがうまく自分で食べきれない量の獲物をとってきた。家を作るのがうまい人、道具を作るのがうまい人、遠くにいる人に持っていって売る人など皆が得意なことをシェアするようになった。すべては他人の喜びの為、自分や家族の喜びの為が最大の価値であった。近くに体が不自由な人があれば、代わってやってあげたり、おすそわけすることも自然な行為であった。

ご飯がうまい。家族と暮らすのが楽しい。時間があれば自然の中、人との交流で遊びを見つけられた。全てが喜びの時代であった。

いまはお金があれば全てが叶うと、お金が目的となっているため、今まで述べた「幸せを得るための簡単な事実」を忘れることになる。お金はどれだけあっても充足感がなく、さらに追及してどんどん金銭欲を肥大させていくようになるが、そこまでいくと完全に他人にとっては、その人間は「害」でしかなくなる。すなわち肥大させて蓄えた富は他人に幸福を生む価値を冷凍保存し、場合によっては全く使われなくなることがあるのだ。

世界が10人の村としよう。
毎日リンゴは一人1個あれば、幸せになれるとする。そしてその村は毎年3650個しかリンゴが獲れないとする。
リンゴを人の倍獲る人間がいて、彼がそのリンゴを倉庫にしまいこんでしまうと困ったことになる。365個のリンゴはだれにも食べられずに倉庫で腐ってしまうのだ。(もちろん彼が人の為にその能力を活かせば、180度結論が変わる。)

お金の場合もっと困ったことが起きる。それが「マネー」だ。お金がお金を生むこともあるし、自然と減ってしまったりもする。お金がお金を生むのが進めば、一人がリンゴ2個どころではない。世界の半分の富を一人占めもできる。他の人は一日半分のリンゴで我慢しなければならないのだ。

これが今の世界である。これは石器時代より進歩していると、胸を張って言えるのだろうか。地球をかつての何百倍も浪費して、それも自分が10倍の富を欲する為に、浪費されるのだ。

結論を言おう。

もうマネーゲームは破綻している。成長神話もありえない。実体の経済、実物の消費=生産社会があるのみである。自分が自らの手で作りだしたものが、自分のものである。それは成長神話ではない。きょうも明日も同じ生産量で同じ消費量。多少の貯蓄はあるにしても、身に持てるだけ。本当の社会。借金も利息も不労所得も投資も、生活そのものを賭すギャンブルもない。
昨日も今日も明日も同じ暮らし。でもそこには幸せが満ち溢れている。

そんな社会が本当の幸せな社会だと気づくときが、もうそこまでやってきた。人類は戦争や環境破壊や貧困を乗り越え、やっと本当の社会を見出せたのだ。

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