2011年12月31日土曜日

ことしを振り返る

思えば3月11日前の菅前首相の年始のTPP推進・増税・小沢氏排除演説は醜かったが、即悪影響が出ることではなかった。
ところが未曾有の震災被害で一国の首相の力量が問われることになった。結果は落第点であり、実際に落第した。
原発処理を誤り、現在もなお多くの国民を苦しめている。
復興に向けてのプロセスを進めなかった。やっと3次補正・復興への道筋が出来たのが、退任後3か月以上たった11月である。

かろうじて評価できるとしたら、近日中に発生すると言われている大地震の震源域の、しかも断層上に立地している浜岡原発を停止させたことである。
しかし皮肉にも、これが官僚や産業界・原子力ムラの連中にはおもしろくなかったのだろう。もともと菅氏に批判的な小沢氏らマニフェスト重視の国会議員に加えて、自民党・既得権益勢力らの総スカンを食らって、9月に退陣をした。これで歴代6人の首相が1年前後で退任することが続いたことになる。

原発事故に対する責任はすべて菅首相にあったとするのは、必ずしも正しくない。東電・経産省・文科省・御用学者・経団連・マスゴミ(=国民の真の利益にかなった報道をせず、政府・財界等の意向を酌んで偏向した、あるいは真実を隠蔽・過小評価する報道機関。主に全国紙TVネットワークを備えた大手新聞社に多い)ら全てが、巧みに連携して、原発事故を引き起こし、その影響を正しく発表せず、開発費113億年間維持費8億もかけているSPEEDIという、放射能拡散予測情報を隠蔽し、大量の放射能を福島の人々に無駄に浴びさせた。防ぐことができたにも関わらず、である。ほとんど犯罪に近い。

御用学者の安全デマも犯罪に近い。
当初原発はちょっと音がしたけど、大丈夫。爆発はしていない、メルトダウンはしていない、格納容器という頑丈な箱で守られているので放射能は出ない、などとうそを繰り返した連中の罪は、この国では全く問われようとしない。海外では即犯罪である。

いったいなんて国だ。いざという時に国民を守れないのは、果たして国と言えるだろうか。先の大戦でも、多くの国民を「一億総玉砕」となどと、教育・マスゴミ上げて宣伝し、多くの国民が犠牲になった。あの頃となにも変わっていない。国民の命より大切なものがあるのだ。

政治的にはインチキ民主党がますます加速し、マニフェストはことごとく反故にされ、いまや最も重要な「増税しない行政改革で、財政改革を」という政策は風前の灯だ。

今年の最後も「増税論議」で幕を閉じようとしている。増税タイムスケジュールも打ち出し、申し訳程度に国家公務員給与削減も提示するも、率は明示せず。蓮舫が大みそかのきょう打ち出した、諸悪=無駄遣いの根源である特別会計の一般会計統合などの改革案も、これまでもパフォーマンスだけの彼女の性向から信用はできない。

政治家は「実行してなんぼ」である。口先だけパフォーマンスだけは最悪だ。政治家で一番重要なのは「国民のために政治をする」という信念だ。次に結果である。
いまの民主党、特に松下政経会を中心とした現執行部はもっとも信頼できない政治家と確信する。

来年こそ、真の国民側にたつ信念の政治家の登場を願いたいものだ。

2011年12月25日日曜日

淡々と官僚仕事をこなす野田内閣は崩壊寸前

およそこの内閣ほど「民心」から遠い政権はかつてなかった。

嘘の「福島第一原発冷温停止宣言」をし、着々と増税シナリオをこなし、平気で09総選挙マニフェストをことごとく破り、こんな内閣はもう怒り心頭の声(ツイッター・ブログ)がいっぱいだ。

歴史の世界ではこういう時は「革命」になる。日本では「一揆」「打ち毀し」になる。今の日本人はおとなしいと高をくくっている野田首相=官僚は一切そういう心配はしていないように見える。
おそらく民主党は議席数を大幅に減らし、まさか自分たちは落ちないだろう、むしろマニフェストを信奉する議員が落ちて、自分たち幹部は安泰、自民党が少々議席を伸ばしても、それは読み込み済み、とでも考えている節が見られる。

とんでもない。今の総選挙の小選挙区制度でいえば、一気に現執行部の大半が落選する。そして新しい政党が地味ながら「民心」にしたがって、腐りきった官僚支配制度を変えていく。

課題は多い。
まず「原発収束」と並行して、東電・経産省に特別捜査チーム(なれ合いでない国会議員・正しい使命感を持った検察・真の学者・純粋な民間人)が編成され、証拠保全とてきぱきと正しく「真の原発事故原因」究明と、最終的に「警告を無視し事故回避のチャンスを放棄した人間」「嘘で塗り固め、正しい操作をせず爆発させた責任者」をはじめとした「犯罪者」をはっきりさせる。
これが今後のあらゆる事故を防ぐ唯一の方法だ。

それから官僚機構がお金を使う仕組みを徹底的に明らかにし、歳出を抑え、最終的には官僚が日本を牛耳るシステムを解体していく。
具体的には「予算執行の実権はく奪」「人事権の完全独立」「天下りなどお金を浪費する仕組みの排除」を実行する法律をつくり、官僚機構を解体。

次に国債を零にする予算編成を可能にするため、政府と民間ボランティア政策集団の連携のシステム確立。そして何より、日本を安定的・持続的しかし成長神話でない、現実に即した国創りを実現することが必要である。もちろん広く国民・企業・あらゆる集団共公平に痛みは伴う。弱者に留意した上で、あくまで公平に。

並行して新しいエネルギー政策、中小企業などそれぞれの地域活性化を担うグループの活動をしやすくする場作り、農業・林業・漁業生産の安定化など、あらゆる分野での新しい仕組み・場作りが待っている。

すべてはばらまきでなく、人材活用と広報と具体的物資支援で自治体がフォローし、大きな方針(持続的・安定的・地域優先・民間活用・自治体バックアップ・大企業銀行利益はなるべく避ける)を守り、当初は試行錯誤でも、毎年検証し広報し次につなげていく仕組みを確立してゆく。

日本人なら可能だ。大企業・銀行・官僚など一部の既得権益者に偏在しているお金の流れを、広く毛細血管に行きわたらせるようにすこしづつ、だが確実に日本を変えていかなければならない、と私は思う。

2011年12月24日土曜日

脱原発から社会構造改革へ

福島第一原発は減少したとはいえ、今も放射能を拡散している。閉じ込めが前提の冷温停止とは似て非なるもの。
この世の中で汚染物質・毒物をまき散らしたら、当然大罪である。なのに福島第一原発は全く罪に問われない。捜査の話もない。それどころか他の原発に事故が起きても、やはり罪に問われない可能性がある。なぜ「原発」だけに特権を与えるのか。しかも再び同様な事故が起きれば、日本は沈没する。

福島第一原発も核燃料の状態がどうなっているのか、今後10年間はおそらくその強い放射能の為、確認できないだろうと言われている。なんとも悠長なことだ。核燃料の状態の変化によっては、今も出続けている反応熱が冷やせない事になったら、いったいどういうことになるのか。
ちょっと理科が好きな人ならすぐわかる。温度はどんどん上がっていくのだ。その結果はさらにメルトダウンが進行して、格納容器外へ流出したり、最悪は水蒸気爆発が起きる。そうして、かろうじて大量流出は防がれている放射能が再び3月12日から22日のような大量拡散状態になる。

今そうならないのは奇跡としか言いようがない。総体として冷やしているものの、燃料を直接冷やしているかどうか、全くわからないのだ。

もう「原発」は終わりだ。次々と運転停止をしているが、絶対安全と確認できない(できるわけがない。理由がわからないのだから)限り運転できないとしたら、もう原発抜きのエネルギー政策へと転換せざるを得ない。いくらアホな政府や官僚もその位はわかるだろう。もう準備を始めていると思われる。

成長神話が崩れ、マネーゲームは終了し、国債依存症も極まってきた現在、政府がやることは「増税」ではない。新しい国の構造設計だ。少子化高齢化しようがない。今置かれている状態はそのまま前提に、ゼロ成長安定社会へと舵を切る政治家が必要だ。一時しのぎの「増税」「減福祉」など付け焼刃、2重膏薬、場当たりでしかない。

そう、真っ先にやらねばならないのは「霞が関改革」だ。これは決して官僚にはできない。
いまこそ政治による社会改革だ!

2011年12月3日土曜日

本当に幸福な社会が見えてきた

この世に生を授かり、短い一生で何を成し遂げたいか、人には野望があり、夢があり、希望がある。
その中で自分が満足する生き方をするのが、当然でありそれが可能な社会である。

が、しかし他人の幸福を踏みにじる権利もないし、踏みにじられたくない。
自分の野望や夢は他人には迷惑になることもある。たとえばお金を儲けるということは、自分の裁量ではあるが、他人からお金を奪う事でもあるのだ。

かつては、ほとんどの人が直接他人に役に立ち、他人に感謝され、その対価としてお金をいただいていた時代があった。だんだん規模が大きくなり、会社という組織ができて、個人の職能を集団で果たして対価をいただく時代になった。

そのなかで人は「自分の職能が自らの糧を得ている」という自覚が薄れ、職は「自らの時間の切り売り」という感覚に近くなってしまった。

その発想のもとでは、企業側がその時間を買うのは市場原理であり、求職者が多ければ時間給は下がるという発想になってしまう。さらに「人が他人の役に立つことによって、自らの糧を得ている」という感覚はなくなる。

そして使う企業側も、「機械」と同等の解釈で人の価値を計り、自らを儲けさせてくれるのはどちらかという、極めて冷徹な「経済」論理が働く。すなわち最初は少々借金をしても、機械は「一旦買ったら給料がいらないから得」という効率一辺倒の観念が支配する。そこに人の姿はない。まさしく全てが流れ作業であり、機械以外何もない社会が待っている。ただし機械でいくら作っても、もう誰も買う人がいなくなる。

結局「効率」の追求は人類の滅亡へと繋がる。

もう一度、人類の原点に立ち返ろう。すべてが人間と自然しかない時があった。人は自然から糧を得て、暮らし育て、幸せを実感しながら生きていた。

誰かがいい道具を作り出し、他人の倍の量の米を作った。ある人は狩りがうまく自分で食べきれない量の獲物をとってきた。家を作るのがうまい人、道具を作るのがうまい人、遠くにいる人に持っていって売る人など皆が得意なことをシェアするようになった。すべては他人の喜びの為、自分や家族の喜びの為が最大の価値であった。近くに体が不自由な人があれば、代わってやってあげたり、おすそわけすることも自然な行為であった。

ご飯がうまい。家族と暮らすのが楽しい。時間があれば自然の中、人との交流で遊びを見つけられた。全てが喜びの時代であった。

いまはお金があれば全てが叶うと、お金が目的となっているため、今まで述べた「幸せを得るための簡単な事実」を忘れることになる。お金はどれだけあっても充足感がなく、さらに追及してどんどん金銭欲を肥大させていくようになるが、そこまでいくと完全に他人にとっては、その人間は「害」でしかなくなる。すなわち肥大させて蓄えた富は他人に幸福を生む価値を冷凍保存し、場合によっては全く使われなくなることがあるのだ。

世界が10人の村としよう。
毎日リンゴは一人1個あれば、幸せになれるとする。そしてその村は毎年3650個しかリンゴが獲れないとする。
リンゴを人の倍獲る人間がいて、彼がそのリンゴを倉庫にしまいこんでしまうと困ったことになる。365個のリンゴはだれにも食べられずに倉庫で腐ってしまうのだ。(もちろん彼が人の為にその能力を活かせば、180度結論が変わる。)

お金の場合もっと困ったことが起きる。それが「マネー」だ。お金がお金を生むこともあるし、自然と減ってしまったりもする。お金がお金を生むのが進めば、一人がリンゴ2個どころではない。世界の半分の富を一人占めもできる。他の人は一日半分のリンゴで我慢しなければならないのだ。

これが今の世界である。これは石器時代より進歩していると、胸を張って言えるのだろうか。地球をかつての何百倍も浪費して、それも自分が10倍の富を欲する為に、浪費されるのだ。

結論を言おう。

もうマネーゲームは破綻している。成長神話もありえない。実体の経済、実物の消費=生産社会があるのみである。自分が自らの手で作りだしたものが、自分のものである。それは成長神話ではない。きょうも明日も同じ生産量で同じ消費量。多少の貯蓄はあるにしても、身に持てるだけ。本当の社会。借金も利息も不労所得も投資も、生活そのものを賭すギャンブルもない。
昨日も今日も明日も同じ暮らし。でもそこには幸せが満ち溢れている。

そんな社会が本当の幸せな社会だと気づくときが、もうそこまでやってきた。人類は戦争や環境破壊や貧困を乗り越え、やっと本当の社会を見出せたのだ。